中医診療日誌 - 12

老人性痴呆症
腎の機能回復でよりクォリティの高い老齢期を

高齢化社会に突入した日本では、老後を心身ともに健康に過ごすこと、とりわけ脳の健康ということが切実な課題になってきた。老人性痴呆の問題は中国3000年の歴史にあって古くから知られており、『金匱要略』などの古典に「喜忘」「好忘」「老呆」というふうに記されている。中医学も西洋医学同様、いまだに痴呆症そのものを根治する手立てを見出していないが、進行を遅らせてよりクォリティの高い終末期を過ごしてもらう上で、よりよい痴呆とのつきあい方を示すことが可能となっている。

プロフィール写真

平馬直樹 (ひらまなおき)
1978年東京医科大学卒業後、北里研究所付属東洋医学総合研究所で研修。87年 より中国中医研究院広安門医院に留学。96年より平馬医院副院長、兼任で、後藤学 園附属入新井クリニック専門外来部長として漢方外来を担当。

腎の消長が生殖能力、耳、骨、脳と連結

すでに高齢化社会に突入している現在、日本では健康に老いるということが人生の一大テーマになってきました。とりわけ脳の健康、すなわち痴呆の予防という問題は、今後ますます大きくなっていくでしょう。わが国の痴呆人口は現在約100万人、2020年には300万人を超えるだろうといわれています。痴呆の症状は、記憶の喪失、判断能力の低下、徘徊、不潔行為、幻覚など多様であり、どうしても家族に精神的・経済的な負担をかけ、人生の最期を悲惨な状態で過ごさなければならないというイメージが小さくありません。
いわゆるボケには、老化による生理的に仕方のない機能低下もありますが、中医学はそうした脳の生理的な活性を守り、進行をくい止めるという意味では貢献できるものです。ところが、アルツハイマーと脳血管障害の2大痴呆症といわれるものに対しては、残念ながら治療の特効薬というものを持っていません。現代医学においても研究が進められていますが、特に有効な脳の治療法は見つかっていないのが現状です。
ですから痴呆症に対して中医学は、根治の手段を提供するものではありません。ただし、家族の負担を減らし、本人もより高いクォリティで生活してもらう上では一定の役割を果たすことができると思います。
東洋医学においては、古くから長寿に対する研究が進められてきました。その身体論では、老化は五臓六腑のうちとくに腎の衰えと密接な関係があるとされています。中国最古の医書『黄帝内経素問』にも、老化と腎との関係が具体的に記されていました。
中医学でいう腎は、西洋医学でいう水分排泄を支配する腎臓の機能を持つばかりでなく、脳、生殖器、ホルモン系、免疫系などに関係するものとされます。そして、腎の働きの消長は人の一生、すなわち成長、発育、老化と死に結びついているとされるのです。例えば小さい子供の知恵遅れも腎の発達が遅れて起こるものであり、年老いてこの腎が衰えることによって老化の症状が起こると考えるわけです。さらに腎の気が衰えることにより、耳の働きが悪くなったり、骨も衰えて骨粗しょう症のような骨の病気になり、脳との関係から腎の衰えは痴呆症にも関わっていると考えられています。


したがって、生理的な老人のボケ症状を遅らせるには、五臓六腑の腎の衰えを補えば、ある程度対処できると考えられます。六味地黄丸(ろくみじおうがん)や 八味地黄丸(はちみじおうがん)などの腎を強化する役割を持った薬によって老化に伴って起こる様々な症状は、改善できると考えられるわけです。
一方、病的なアルツハイマーや脳血管障害は、腎の機能の衰えとあいまって、おけつや痰飲という体内の病的な老廃物が積もり積もって、さらに脳に悪い作用を及 ぼして発症するという考え方ができます。ですからこれらの病気の治療に対しては、腎の機能の回復を原則としながら、さらにおけつがあれば活血をし、痰飲が あればそれを取り除く治療を併せて行うことにより症状の進行を抑えるという考え方が大切です。

心身相関の考え方でまず体調を整える

老人性痴呆症の中核症状は、人の顔を忘れたり道を忘れるなどの物忘れと性格の変化の2つです。これらに対しては、中医学も西洋医学もなかなかはっきりした効果を上げることができません。
しかし、痴呆症にはそのほかの随伴症状として、不眠、せん妄、抑うつ、またお金を盗られたとか家族から食事を与えてもらえないといった被害妄想などがあり、これに対して西洋医学は一般的なトランキライザーや抗うつ薬などの向精神薬で対処します。そして、こうした症状に対しては漢方も効果を見込めることが少なくありません。


一方、痴呆を治す確実な治療法が見つかっていない現在、痴呆の危険因子を避け、体調を整えるという予防がきわめて重要になります。とくに生活習慣病の治療 や管理の悪さから、痴呆が進行してしまう人が少なくありません。これを予防するためには、血圧をコントロールし、動脈硬化を防ぎ、糖尿病にならないように するなど、身体のコンディションをよくすることがポイントになります。
東洋医学的にも、年齢的に何歳ぐらいになると五臓六腑の腎の機能が衰えてくるかという予測はできます。そして、腎の衰えが早く訪れることを「早老」とか「早衰」と呼んでいるのです。それは若い頃に大きな病気をしたり、腎の機能を損なうような酒の飲み過ぎ、悪い食習慣、身体の酷使や過労などによってもたらされるとされ、現代医学が指摘する老化や痴呆の予防に関する知見とほとんど一致しています。
ですから体調を整えて痴呆を予防するということに関しては、現代医学の健康管理も中医学と同じように役に立つでしょう。心身相関といわれますが、若いころからの弱点を補ったり生活習慣上の問題点を理解して、身体の機能を整えて元気になるということは、痴呆の進行を遅らせたり止めたりする上でとても重要なことなのです。
また、痴呆症の予防や進行予防には、ある程度の運動をすることも欠かせません。痴呆症の人は、気持ちが抑うつ傾向になり自信がないので外に出たがらなくなり、家族も目を離すと行方不明になったりするので出したがらないという傾向があります。必然的に運動不足になり、その結果、気のめぐりや血のめぐりが悪くなりがちです。歩くことは、気や血のめぐりをもたらす基本です。さらに鍼灸などで体調を整えることも、気や血のめぐりをよくするわけですから、痴呆の予防や改善のためにはとても意味あることといえるでしょう。

6ヵ月の治療で患者の意欲が回復

72歳のFさんという女性が、初診の際、自分で診療予約の電話を入れた上、1人で電車を利用して来院されました。訴えは「咳が出やすい」ということだったので呼吸器の疾患かと思ったのですが、どうも診察中の応答が要領を得ず、年齢的にも軽い老人性痴呆が始まっているかな、と感じられました。
再診でFさんはご主人と2人で見えました。この時ご主人の話を聞くと、Fさんは物忘れがひどくて、買い物に出かけても何を買いに行ったか忘れたり、おつりの計算ができないなどの問題が多く、困っているとのことです。また、性格にも異変が見られ、ひがみっぽくて怒りっぽくなったということでした。
じつはFさんはすでに脳神経外科や精神科の診察を受けており、「初期老人性痴呆」との診断を受けたとのことです。脳のCTやMRIでは血管にはそれほど障害がなく、おそらくアルツハイマーの初期だろうとの診断を受けたとのことです。
ところで、アルツハイマーは亡くなったあと脳を解剖して組織を見ないと確定診断ができません。ですから、痴呆の症状があって脳血管障害を除外していちばん可能性が高い病気として、臨床的にアルツハイマーの初期と診断されるわけです。Fさんはアルツハイマーに見られやすい不眠もあるので、睡眠薬を投与されていました。
Fさんご夫婦は2人暮らしです。数年前まで息子さん一家と一緒に生活していたのですが、息子さんが海外転勤となったために、定年退職後のご主人と2人だけの生活となりました。以前はとても元気だったFさんに物忘れなどの異変が生じたのはその頃からのようです。買い物に出かけて失敗するということが続き、ご主人が「おかしい」と感じるようになりました。本人も「おかしい」と感じたようで、以前はそんな性格ではなかったのに、失敗をご主人から非難されるのではないかとひがみっぽくなり、何かにつけて、「どうせ私はできませんよ」と怒りだしたりするようになってきたとのことでした。
Fさんへの処方は、腎を補うことを基本にして、胃腸のパワーもつけたほうがよいと考え脾を補い、また血のめぐりをよくする活血という作用のある薬物を考えました。また、これも残念ながら特効薬とは言えないものですが、「醒神」という働きを持つ薬物を加えています。中国では「神」は人間の精神活動をつかさどる物質で、神の機能が眠っている状態として現れるのが痴呆であり、これを醒ます役割を持った薬物というわけです。
Fさんが予約時間に遅れて診察に見えたことがありました。ご主人に付き添われて来院する途中、バス乗り場でご主人が目を放した時にいなくなり、ご主人が探していたそうです。よくあることだそうで、ご主人は「行方不明になっても必ず1人で戻れますから」と、Fさんを信じてあげる気持ちにゆるぎはない様子でした。このように、身近な人が闘病に熱心で、「2人で病気に取り組もう」という姿勢が感じられれば、見ているほうも安心できます。
こうして3ヵ月くらい薬を飲み続けると、Fさんは食欲も出て、顔の血色もよくなってきました。最初はなかなか外出したがらなかったのに、ご主人が付き添って相談しながら買い物にも出かけるようになったそうです。またご主人が少しは手伝うけれど炊事、洗濯、掃除などもほとんど1人でできているとのことでした。
現在通院して約6ヵ月になりますが、ご主人はFさんに何となく気力が感じられるようになったとおっしゃっています。ご主人が誘えばFさんは一緒に散歩にも出るようになったとのことです。多少怒りっぽいところや、物忘れ自体はあまり改善しないのですが、体調はずいぶんよくなっていると感じさせます。逆に、こうしたご主人の介護や投薬がなければ、おそらく痴呆はかなり進行していたのではないかと思われます。
さて、日本和漢医薬学会では、しばしば老人性痴呆に有効だったという薬が報告されます。そのなかで代表的なものの一つは黄蓮解毒湯(おうれんげどくとう)という処方です。この薬は身体のなかに生じた余分な熱を冷ます役割があって、いらいらやもやもやを醒ましたり、不眠などの症状を一時的に和らげる作用があります。


また、当帰芍薬散(とうきしゃくやくさん)もよく話題になる薬です。やはり体質を強化して血のめぐりをよくする活血という働きや水のめぐりをよくする作用 があります。理論的にも症状の緩和に役立つ可能性がありますが、やはり体質の強化や腎の機能強化を基礎とし、痰飲があればそれをとるという基本の上に立て ば有効なものです。
このほか釣藤散(ちょうとうさん)という薬も、昔から痴呆症などにはよく使われています。血圧のコントロールを通じて症状を改善することが知られてきたものでしょう。
痴呆治療において中医学の効果は、そんなに華々しいものではありませんが、確実に人生の終末の時期のクォリティの改善には貢献できているものと思います。痴呆症の患者さんが徐々に普通の人に近い生活を取り戻すことができるように支援できるものといえるでしょう。

 


TOP