中医診療日誌 - 2

五臓六腑の「気血の乱れ」に注目した不眠の治療

不眠症は現代医学では「精神症状」として、身体症状とは独立した診断、治療がなされるが、中医学では内臓の失調によるものとしている。五臓六腑の気血のバランスを整えることを目指した投薬が、不眠を改善し体調全般を回復した症例と治療の考え方を紹介する。

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平馬直樹 (ひらまなおき)
1978年東京医科大学卒業後、北里研究所付属東洋医学総合研究所で研修。87年 より中国中医研究院広安門医院に留学。96年より平馬医院副院長、兼任で、後藤学 園附属入新井クリニック専門外来部長として漢方外来を担当。

カゼによる体調不良と心労が合併

昨年2月、中小規模の会社にフルタイムで勤務し、経理事務を担当する46歳のS子さんが来診しました。主訴は不眠です。
S子さんはカゼを引いて妙なだるさが続いていて、咳や痰が出ていましたが、検温すると微熱程度なので、無理して仕事をしていました。その微熱も1週間ほどで収まりましたが、どうもだるさだけはいつまでも尾を引き自宅に帰るとぐったりしてしまい、家事は長女の手助けを受けてなんとかこなしているという状態です。咳や痰も3週間位でなんとか収まったのですが、 やはりだるさがとれず、気力が湧いてきません。  
疲れを覚えて床に横になってもいつまでも眠りに入ることができません。ようやくうつらうつらし始めると、すぐに夜が白々と明け始めるという有り様で、起き出すのがつらくてたまらないとのことです。 
こうした場合、もともとS子さんが眠れなくなった体質的な素因がほかにあるのではないかということを考えなければなりません。問診をとおして聞いてみました。

--胃腸は丈夫なほうですか?
「いえ、あまり丈夫ではありません」
--食欲は?
「ありません。全然食べる気がしないのです」
--体力にあまり自信がないようですね?
「ええ、気力でなんとかカバーしています」
--ほかに何か生活面で悩んでいるようなことはありませんか?
「今、学校に通っている長男の就職のことが悩みの種です。それに、夫が初めて単身赴任になり、ちょっと心細い思いをしています」
また体力に自信がないために、「このまま体調が回復しないのではないか」という不安もあります。食事の仕度もできないため、「子どもに申し訳ない」といった気持ちも働いているようです。職場でも従来はいろいろな仕事をこなしていたのですが、最近はちょっとしたことで不安になり、どきどきと動悸がしやすくなっているとのことでした。そして眠りにつこうとしても、それらのことをくよくよと考えてしまうようになりました。
S子さんは、体調が悪いところに心労が重なっていたにも関わらず、それをおして働き続けるうちに、気力が萎えてしまったようです。
脈診や舌診を行うと脈は打ち方が弱く、また舌の色は少し赤みが薄いようです。いずれも気血が不足した状態を示しています。
当然冷えやすいタイプということになりますが、S子さんの場合は冷えに慣れているせいか、手足の冷えはあるものの、特に「冷えやすくて困る」と訴えることはありませんでした。

精神症状も内臓の機能失調から


クリニックを訪れる患者さんの中に、「眠れない」と訴える方が増えているようです。現代医学では、不眠症は一種の精神症状とされており、身体症状とは異なった特別な症状と考えられています。精神科のあり方も、他の科とは独立し、かなり色合いの異なる診療科と見られるのが一般的です。
ところが中医学では、精神症状は身体症状と異質ものとは捉えず、精神と肉体を同じレベルで考えるのが特徴です。
例えば「イライラする」という精神症状も、「目が充血する」、「耳鳴りがする」、「血圧が上がる」といった身体症状と同じようにに現れるものと考えます。

前号でも説明したように、中医学では病気の起こり方を、環境因子が身体に働きかける要素と、身体の中から変調がもたらされる要素の両方があると考えます。身体の中からの変調というのは、気血の乱れなどのように五臓六腑からくるわけですが、精神情緒の異常もこのようにして現れると考えられています。
さらに、中医学の特徴として、ある特定の感情の起伏が、五臓六腑の特定の臓器の機能を乱すという考え方をします。
例えば怒りという感情は、肝の機能を乱すと考えます。その結果、血圧が上がったり、目が充血するといった症状が一緒に現れたりするわけです。 
また、思い悩むという感情が長く続くと、脾の機能を乱します。脾は消化器センターの役割を持つ臓器ですから、その機能が低下する結果、胃腸が活発に働かなくなって食欲不振になるわけです。
さらに、悲しいという感情は肺の機能を低下させます。そのため、呼吸が浅くなるという身体症状を呈します。
ただし、総体的にまとめれば、精神症状の主なものは、肝と心の2つの臓器と関連しているといえるでしょう。肝の変化は、落ち込んで気分がすぐれない、抑うつ状態になる、イライラする、妙に怒りっぽいという情緒の変化と関係します。
また、心のほうは意識のレベルと関係が深く、睡眠とは意識の動きと関わる生理活動ですから、睡眠の失調というのは心の機能と結び付けて考えられるわけです。 
ところが、心の動きは肝の機能に影響されています。そこで抑うつやいらいらが肝の乱れをもたらし、心の乱れに結びついて睡眠障害が起こりやすくなります。


不眠は外邪より内因にポイント

S子さんはもともと胃腸が丈夫ではないという体質的な弱点を持っていました。これは消化器センターである脾が弱いということであり、中医学では「脾の気虚」の体質と呼びます。
脾臓は身体にとって重要な気と血を生産する源であり、ここが弱くなってその生産能力が衰えていました。同時に思い悩むという心労が重なれば、脾臓の機能をよけい低下させるわけです。その上、カゼなのに無理して働いて体力を損ない、中医学でいう「気血の消耗」という状態になっていました。
また、眠れないという症状自体は心臓の機能の乱れからきます。S子さんの問題は脾臓と心のバランスが悪くなっているのが1番重要と見受けられました。 
「気と血」は身体にとって重要な物質ですが、「気」はどちらかといえばエネルギー源、「血」の方は身体の栄養源と考えられます。
そして、脾臓は「気」が最も満ちている状態が活発に活動できる臓器であり、心臓は「血」がたっぷりなければ機能できない臓器なのです。S子さんは気血を消耗していることから、「脾の気虚」と「心の血虚」が合わさった状態と判断しました。 
中医学では人間の精神活動を主るのは、心臓に蓄えられる「神」という物質であると考えています。五臓六腑の五臓はもともと「五蔵」と書き、「蓄える」という意味だったのです。肝臓は血を蓄えるし、腎臓は精を蓄え、そして心臓は神を蓄えるという臓器なのです。一方、大腸、小腸などの六腑の腑はもともと「府」であり、「ものが集まって通過して行く」という意味です。 
これらのことを平易に表すと、「心の血」が不足すると「心の気」がすごく不安定な状態になってしまい、人間の精神活動を主る物質である「神」が暴れ出しそうになります。ですから心臓の働きが乱れると「神」が全身にうまく供給されなくなり、睡眠や意識が非常に不安定になり、夜中になっても目が冴えて眠れくなるという状態になるわけです。 
カゼは万病のもとといいます。S子さんもカゼを引いたのがきっかけでいろいろな不調に陥り、それが尾を引きました。心臓とか肝臓の機能を乱す精神的なものは、自然に身体の中で生まれる変化という場合もありますが、外邪が作用する刺激によって感情が動かされるというケースも当然あります。
ですから、身体の中の感情の変化が病気を生むばかりではなく、外的な刺激が働きかけた結果として病気が起こることもあるわけです。


そのためS子さんのようにカゼが引き金になった不眠の症例では治療にあたって、「外邪が影響した」と思いがちになり、カゼのみを治そうとしがちです。とこ ろが、よく聞いてみるとS子さんには、もともとの体質の問題があったり、心労があったりしたわけです。外邪に引き起こされた症状であっても不眠の原因は体 質や心労などの内因によるものと考えることができるわけで、これが治療のポイントになります。
そこで、治療としては、脾の気を後押しし、心の血を補充するということを考えます。この役割をするのは『帰脾湯』という薬であり、これを基本として処方することしました。
実はS子さんとは反対に、気血が充実しすぎて陽気が暴れるために眠れないというケースもあります。特に男性の初老期の人に比較的多く見られます。例えば会社 を定年退職し、まだ働きたい気持ちはあるけれど仕事先が見つからないなど、毎日をどう過ごしていいかわからないという人などに目立つようです。昼間仕事で 使っていたエネルギー、すなわち気血が余っている状態と考えられるでしょう。
こういう人は床に入ったけれど、何か落ち着かず、なかなか眠りにつく までジッとしていられません。起き出して顔を洗ったり、歯を磨いたり、トイレに行ってみたりということをしがちです。普段からいらいらして怒りっぽいとい う人にありがちで、女性にもしばしば見受けられます。こうしたタイプには、薬も帰脾湯とはまったく逆の作用をする『加味逍遥散』とか『酸棗仁湯』という薬 を併せて処方したりします。

不眠解消とともに全身状態をも改善

S子さんは気分的に不安感が強いので、「時間はかかるかもしれないけれど必ず回復する、そう心配する必要はない」と十分な説明を行いました。そして、「精神安定剤や睡眠薬に頼らなくても近いうちに睡眠のリズムは必ず戻ります」と話して、まず安心してもらうよう考えました。
また体力をなるべく早く回復してもらわなければなりません。食欲がないS子さんは、「何かを食べなければ」と、食事の度に義務的に一生懸命お腹に詰め込もうとしていましたが、やはりそれほど食べられなかったようです。
そこで食事療法としては脾を養うために、日本人に合ったお粥やご飯などの穀物を中心に、他に好きなもので消化のいいものを少しずつでもおいしく食べるように心掛けてもらいました。


S子さんは帰脾湯を飲み始めるとだんだん胃腸の調子が整ってきて、1週間後に寝つきはまだ少し悪いけれど、いったん寝入ればグッスリ眠れ、朝少し楽に起きられるようになったということでした。
その後も同じ薬を続けて、1週間ごとの診察のたびに顔色もよくなり、ほぼ1カ月の服用で睡眠も安定してきました。気力も回復して仕事と家事を両立できるようになり、もとの自分に戻ってきたとのことです。
S子さんは46歳という年齢からも更年期と重なり、気血のバランスが乱れやすい状態にあります。西洋医学的にいえばホルモン系のバランスが乱れやすく、自律 神経が失調しやすい時期にあたります。帰脾湯を飲んだ結果、主訴である不眠は解決しましたが、それだけでなく薬が身体に合ったのか、全身が快調になったと のことです。そのため、不眠に悩まされなくなってからも、湯液に代えてエキス剤の帰脾湯を飲み続けています。


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