演義に描かれたインフォームド・コンセント

関羽が碁を打ちながら華陀の手術を受けたのはあまりにも有名な話である。
しかしそこで手術の手順から予後まで華陀が説明をしていたのは読み過ごされがちだ。
古代の医療は今も新鮮である。

岡田明彦

荊州城内に建てられた「割骨療毒処」いまも堀と城壁に囲まれる荊州城内(現湖北省江陵市)の荊州医院の中庭に、関羽が碁を打ちながら華陀に手術をさせている像が建てられている。『三国志演義』のなかでも特に関羽の剛胆さを示した名場面であるが、これは正史には出てこない。
事実関羽は、樊城の戦いで毒矢を受けて荊州に引き揚げるが、関羽を治療したのは別の医者らしい。作者羅貫中が創作上どうしても名医華佗を名場面に登場させたかったのだろう。ここが『三国志演義』の七実三虚といわれるゆえんである。
しかしその中に、現代のインフォームド・コンセントにも通じることが書かれている。演義では、樊城の戦いで敵の毒矢を右肘に受けた関羽は本陣のある荊州に引き返すが、なかなか傷が治らない。そこに関羽の負傷を聞いた名医華陀が江東より小舟に乗って傷の手当に来ると、関羽は痛みを紛らわせるために、ちょうど馬良と碁を打っているところであった。
華陀は傷口を見ると、トリカブトの毒が骨にまで到って青くなっていることを告げ即座に手術をすすめる。関羽がどのようにするのかと尋ねると華佗は、「部屋の静かな所に柱を立ててそこに輪を打ちつけ、腕をその中に通して縄で固定し、顔を夜具で覆ってもらい、小刀で切開して骨に達した毒を削り取った後、薬を塗り糸で傷口を縫合して終わる」と微細に手術の方法を説明する。

現江陵市は昔荊州古城と呼ばれていた静かな所で夜具で顔を覆うのは、武勇の誉れ高い関羽が手術の際痛みに耐えかねて泣き叫ぶ声を部下に悟られないようにと、関羽の立場をおもんばかってのことであろうし、輪に腕を通して縄で固定するのは、止血と手術部位の固定と考えられる。
関羽はこれを聞くと「そんな柱などいらぬ」と剛胆にいい、酒を数杯飲むと馬良と再び碁を打ちながら平然と華陀に手術をさせたとある。

酒は華佗がすすめたのか、関羽自ら求めたのかは文中では明らかでないが、酒が痛みを麻痺させることは周知のことである。しかし不思議なことに羅貫中は華佗が考案したとされる麻酔薬「麻沸散」のことをここではふれていない。
麻酔に頼らないことで関羽の凄さを引き立てたかったのであろうか。
また手術が終わると怒気は傷に触れるから百日は怒らないようにと予後のことを説明し、一包みの塗り薬を置いて華陀は金も取らずに立ち去る。
この下りを読むと、羅貫中の創作部分とはいえ基本にある医療の水準が相当なものだとわかる。

華佗は江東より小舟にのってそのまま陣に乗り込んだという。往時を偲ばせる風景があった
荊州古城の門外にあった小間物屋
荊州博物館にある関羽像

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