「バイオエシックス」にみる 生・病・老・死 - 1

バイオエシックスとは何か

医師にいのちをまかせるのではなく、自分のものとして、互いに助けあいながら、
いのちを守り育てていこうという運動のネットワークが、今、世界に広がりつつある。

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木村利人 (きむら・りひと)
一九三四年東京生まれ。早稲田大学第一法学部卒業。同大学大学院法学研究科博士課程修了後、サイゴン大学、ジュネーブ大学大学院教授、ハーバード大学研究員等を経て、ジョージタウン大学医学部客員教授、早稲田大学教授。著書に『バイオエシックスとは何か』等多数がある。

アメリカでは300年の歴史

私の取り組んでいるバイオエシックスというのは、初耳であることのほうが、おそらく日本では普通かもしれない。実はバイオエシックスという学問は、アメリカでは約300年の歴史があって、今では小学校でも、中学校でも、高等学校でも、大学でも、バイオエシックスという言葉が教科書の中に出てきて、学科目としてバイオエシックスという講義やコースがある。このバイオエシックスというのは、「いのち」のバイオ、ギリシャ語のビオスという言葉と、エシックス、これは簡単に言うと倫理学、もとのギリシャ語の意味は、習俗とか習慣、ライフスタイルという意味だが、それを二つあわせてバイオエシックスという一つの言葉ができたわけである。日本語に訳せば「生命倫理」という言葉になる。

生命倫理というふうに言うと、今までの私たちの考え方からして、倫理学という学問は昔から哲学の一分野として、なすべきか、なさざるべきか、ということをといかけてきた学問のわけだが、そういう倫理学の一分野というふうに考える人が多い。つまり生命倫理は倫理学の一分野で、これは哲学関係の人が考える問題だということになる。しかし、私はいのちの問題に焦点を合わせつつ、以下に述べるように、バイオエシックスをきわめて幅広く独自の構想で学問的に展開してきた。

バイオエシックスの研究領域

バイオエシックスの対象は遺伝子操作・人工受精など生命誕生の諸問題から始まる

第一に、バイオエシックスはいのちの初めに関する問題を取り扱う。つまり、いのちの初期の段階から技術が介入できるようになり、体外受精にしろ、人 工受精にしろ、家族計画という考え方にしろ、子供を持たないことも持つことも、あるいはおなかの赤ちゃんの状態を知ることも烽ナきるようになった。染色体 を取り出して、欠陥がある赤ちゃんかどうかを知ることもできるようになった。そういう技術が開発されたきたわけである。

第二に、いのちの 質をめぐる諸問題である。たとえば、今までだったらどうしてもだめになると思われていたような人が、臓器移植を行うことによって生きていくことができるよ うになってきた。あるいは機械によって、臓器のかわりに腎臓の透析などを用いることによって、生きら轤黷驍謔、になってきた。

第三に、いのちの終わりをめぐる諸問題である。たとえば、今までだったらほとんど確実に亡くなってしまったもの、たとえば、自動車事故で脳が直撃を受けてしまったというような人を、生命維持装置によって心臓をもう一度動かして、肺の機能を外部から強化するような形で機械につけて、ある程度脳死の状態でも生きることができるようになった。 そういう科学技術のきわめて急激な変化が、いのちの初め、いのちの質、さらにいのちの終わりをめぐって人間の生命に直接・間接に介入してきているのである。このようなバイオエシックスの研究テーマを整理しておくとバイオエシックスの研究テーマのようになる。

そこで、生はどうあるべきか、死とは何か、生まれてくるとは何か、一体どこから生命を受けるのかという、従来は倫理学者たちがやってきた討議が、現実の問題として科学技術の問題とからみあって、一般の人々の日々の決断の問題になってきた。そういう観点から、バイオエシックスは、医療の科学技術の急激な発展に対応して、一体われわれはどういうふうな考え方でいのちの問題を考え直したらいいのか、という問いかけの中から出てきた学問なのである。

バイオエシックスの研究テーマ

1.生物・医科学実験および人間生命の始期をめぐっての諸問題

たとえば遺伝子操作、人工受精、胎児実験、体外受精、胎児の保護、妊娠中絶、遺伝相談、人口政策など

2.人間生命の質の向上をめぐっての諸問題

たとえば、自然、社会、環境と生命、生命権・健康権・医療・保健と財政・法律・政治・経済の構造・治療と看護、人工臓器とその移植、生物・医科学専門家・医療従事者・患者・被験者を含む倫理基準・指針、歴史・伝統・文化・社会・宗教・教育とバイオエシックス

3.人間生命の終期をめぐっての諸問題

たとえば死の判定の再定義(自然死・尊厳死などの立法)、ホスピス等における死期の看護、植物状態人間、延命装置の使用とその停止、安楽死、医療辞退など

バイオエシックスのルーツ

かつては、医学というのは専門の医師が専門の知識に基づいて処置をしていけば、私たち患者になる者にとっては、「何もかもおまかせします」ということでよかった。しかし、その状況が大きく変わってきたのが1950年代の後半から60年代の初めにかけてである。当時アメリカでは、人種差別とか、女性差別とか、患者の権利の運動とか、環境保全の問題とか、そういう人権や自然を守るための社会的な運動が起こってきて、それがベトナム戦争の反対運動と結びついて、社会的に大きなインパクトを広げていったわけである。そういう社会的な構造の中で、今までただ医師の言いなりになっていた状況があらためて確認されて、これでいいのだろうかという反省に基づいて、自分のいのちを自分で守って育てようというバイオエシックスの運動が出てきたのである。

エイズ患者をケアするボランティア

ところが、日本ではそういうバイオエシックスの背景がわからないから、たとえば体外受精の問題が出ているときには体外受精、脳死なら脳死、臓器移植 なら臓器移植というふうに個別の問題として取り扱われてしまい、それらを貫くバイオエシックスの流れが見えてこないのである驕Bそういう「いのちの問題」 をまとめて、総合的に21世紀に向けてどういうふうに考えたらいいかというようなことを踏まえた学問が、実はもうすでにできているということがなかなか理 解されない。全部バラバラなため、はたしてこれは一つの問題だろうかと思われてしまう。しかし、根は一つなのである。

新しい価値をつくり出すために

バイオエシックスというと、遺伝子組替えとか、人工受精とか、先端科学技術だけが脚光を浴びているが、その根には実はいろいろな価値観の変動があるのである。たとえば、たばこを吸うことが肺がんと結びついていくということは歴然としているから、日本では「未成年者はたばこを吸ってはいけません」ということは書いてあるが、アメリカでは「このたばこを吸うと、あなたの健康には害があります」と書いてある。害があると書いてあっても吸う人がいるわけだが、それは吸う人の自由で、強制はしない。そういうライフスタイルの問題を含めて、自分たちの生き方を考えていこうというのがバイオエシックスの基本である。

つまり、いのちを自分のものとして、どうやってお互いに助けあいながら、限られた人生を充実して生きるか。それは先端科学技術だけだはなくて、日常的な生活の中で、私たち自身が工夫しあい助けあって、死にゆく人を看護し、あるいは未熟児で生まれた人たちをお互いにサポートしあうというような運動が、バイオエシックスの基本にあると思うのである。そして、いのちを守り育てる運動の大きなうねりの中で、世界中にネットワークが広がりつつある。

その中で、私たち自身が、たとえば臓器移植をどうするのか、脳死をどうするのうというようなことを含めた提案をしていく。そういう運動のネットワークを私たちが日本でつくりあげていかない限り、専門家、立法者、あるいは法律の専門家にまかせるというようなシステムになってしまう。アメリカで行われているリビングヴィルの立法とかあるいは自然死関係の立法とかいうのは、みんな一般の人々のサポートによってできているわけである。そういう方向をこれから日本で広げていくことに、わたしはささやかながら全力を尽くしていきたいと思っている。


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