スピリチュアルケアは宗教的ケアとは異なっている

スピリチュアルケアは宗教的ケアとは異なっている

「魂のケア」ともいわれるスピリチュアルケアは、これまで死の臨床の場で、主に宗教職によってなされてきた。しかし、じつはスピリチュアルケアは旅立って行く人たちだけでなく、われわれの日常にも求められるものであり、その中で育まれていかなければならないものだったのかもしれない。市立堺病院などで患者や家族、医療職などに対する臨床スピリチュアルケアを実践し、またケアワーカー養成のプログラムに取り組む聖トマス大学日本グリーフケア研究所主任研究員の谷山洋三氏に、宗教的ケアとスピリチュアルケアの関係を聞く。

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谷山洋三(たにやま・ようぞう)

聖トマス大学人間文化共生学部准教授・日本グリーフケア研究所主任研究員。1994年東北大学文学部哲学科(印度学仏教史専攻)卒業。2000年東北大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は、臨床死生学、仏教福祉学。著書に『スピリチュアルケアを語る─ホスピス、ビハーラの臨床から』(共著、関西学院大学出版会)、『仏教とスピリチュアルケア』(東方出版)など。

ケアはペインに対するものとは限らない

スピリチュアルケアとは「スピルチュアリティによるケア」ということになるでしょう。スピルチュアリティは、「目に見えないもの」「魂のレベル」のものです。このスピリチュアリティが何らかの作用で働いて、結果的に「癒される」という状態を作るのがスピリチュアルケアだと思います。

スピリチュアルケアについては、「スピリチュアルペインがあるから、これをケアするもの」という考え方が示されています。「痛みがあるからそこに手当てをしなければならない」という発想です。非常に理解されやすい考え方ですが、そうした定義はスピリチュアルケアを非常に狭く限定させるものだと思います。別にペインはなくてもケアはあるからです。

「ケア」には、「人の成長を助けるもの」という定義があります。ペインがあろうがなかろうが、人は成長するわけですから、スピリチュアルケアはペインがなければ成り立たないわけではありません。ペインに対するケアということになれば、すなわち「マイナスからのスタート」ということになります。ペインがないところへのケアならば、「ゼロからプラスへのスタート」という考え方もできるわけです。

英語の「スピリチュアルケア」は、「パストラルケア」から来ています。パストラルケアというのは教会の信者のケアでした。そこに病気があろうがなかろうが、子どもも大人も関係なくケアの対象となっていました。スピリチュアルケアの源流は「ゼロからプラスへのスタート」だったのです。

日本ではスピリチュアルケアはホスピスの緩和ケアから入ってきたという経緯があるので、どうしてもスピリチュアルケアは医療との関連で語られることが多く、医療の世界ではマイナスからスタートするスピリチュアルケアになってしまうわけです。

日本スピリチュアルケア学会での発表を見ていると、福祉関係者、音楽療法士、宗教者、教育者、芸術家、心理カウンセラー、看護師、医師などじつに多彩です。これだけ考えてもスピリチュアルケアは医療ケアという枠に封じ込める必要はないと思います。

「魂を癒す」というスピリチュアルケアと言えるような現象は、いろいろなところに見られるのではないでしょうか。 

「答え」を示すのはスピリチュアルケアではない

疾病を持った人たちに対するスピリチュアルケアの道具立てとして、音楽や絵画などの芸術もあれば、海や山などの美しい自然などいろいろあります。中でもいちばんわかりやすいのは宗教でしょう。宗教の中にはスピリチュアリティが満載されています。それゆえこれまではスピリチュアルケアを宗教者が担うことが多かったわけです。

私自身ビハーラ僧(仏教系緩和ケア病棟でスピリチュアルケアを提供する僧)の経験もあり、一方で、宗教的ケアも提供してきました。私はスピリチュアルケアと宗教的ケアを分けて考えています。実は、スピリチュアルケアでは、仏教的なものかとか、キリスト教的なものかといったことはあまり関係ないのです。たとえばケアを提供する側が、「私は仏教しか認めない」というふうに主張したら、おそらく相手は尻込みをするでしょう。それはスピリチュアルケアとは言わないと思います。スピリチュアルケアを提供する側がいかに宗教に寛容であるかは大切な要素です。スピリチュアルケアに「禁忌」があるとすれば、ケアの提供する側の考えを押し付けることだといわなければなりません。

一方、宗教的ケアでは、ケアを提供する側とされる側でお互いの宗教観が一致もしくは似ていることが前提となります。なおかつケアを提供する側に主導権があり、牧師とか僧侶や信仰仲間がいなければケアになりません。

「答え」を与えるというのが宗教的ケアです。(7頁図参照)

その意味では、テレビに出演している江原啓之さんや美輪明宏さんなどの「スピリチュアル・カウンセラー」も宗教的ケアに近いところがあります。視聴者は彼らのファンであり、彼らの世界観を求めているのですから、彼らがいなければまったく始まらないわけです。

スピリチュアルケアは宗教的ケアとは逆に、ケアを提供する側がケアを受ける側の患者さんに世界観に合わせるものです。主導権は患者さんにあって、患者さんが行きたいほうについて行くので、そこに適合する答えを提示することなどありえません。

看護師をはじめとする医療者のスピリチュアルケアへの関心が高くなっていますが、医療者がイメージしているスピリチュアルケアは宗教的ケアに近いのではないかという印象があります。医療は医療者が主導権を握っていて、医療者がいなければ始まらないし、しかも医療者はケアを受ける患者さんに医療処置という「答え」を出そうとする傾向が強いからです。このようにスピリチュアルケアと宗教的ケアとの混同があるように思えてきます。

また、患者さんが、治療のことなどで悩んでいるとしましょう。ところがその人は、何かのきっかけでお母さんの話を始めると、途端に表情が生き生きし始めます。そこで「ああ、あなたはお母さんのことをとても大切にされているのですね」と声をかけます。患者さんの気持ちに寄り添って、その人に力を与えてくれるものを確認する、といったところにスピリチュアルケアはあると思います。

一般的にはスピリチュアルケアは、一対一のカウンセリング的なものだと考えられていて、実際そのようなケースがたくさん報告されています。それは、ケアがペインに対する対応に限定したものだと捉えられているからでしょう。しかし、スピリチュアルケアには、もっといろいろな側面があるのです。

例えば、点滴だけで何ヶ月もご飯が食べられなかった患者さんがいるとしましょう。病気から回復してようやくご飯を食べることができるようになった時はさぞうれしいことが想像できます。さらに初めて食べられるご飯が病院食ではなく、家族の手作りだったりしたら最高にうれしいでしょう。 

スピリチュアリティに関わる「先祖」と「自然」

日本は一神教の国ではありません。日本人の宗教観はおそらく仏教でも神道でもなく、どちらかというと祖先崇拝や自然崇拝が混ざり合ったものなのではないでしょうか。自然崇拝と祖先崇拝の二つは、日本人のスピリチュアリティにとって大切な要素ではないかと思います。

ちょっと考えてみると、祖先崇拝の感情が私たちの日常生活で頻繁に顔をのぞかせることに気づくはずです。例えば日本人は、「ご先祖さまが迎えに来る」という言い方をします。「どこへ行くのか?」といったことは誰も問いかけたりしません。「死ねば亡くなった家族に会える」という概念を漠然と備えているようです。

また自分のまわりで何か事故が起こったのに、あやうく難を逃れたりすると、「あ、これは死んだおじいちゃんのおかげではないか」と思ったり、語ったりします。日常の中でも亡くなった人たちとの関係は続いているわけです。

自然崇拝があるのは日本人に限ったことではないとは思いますが、その中で日本人は特有のイメージを持っていると思います。日本の原風景には、特徴があるからです。

例えば河川を考えても日本の河川は向こう岸が見えますが、中国やインドの大河では向こう岸が見えません。すると日本では此岸(しがん)と彼岸とが接近しているということになります。

また日本はどこにいても山が見える山国です。どこの山でも信仰の対象となっていて、山自体がご神体ということも見られます。先祖が山にいるという信仰もあり、亡くなった人と会うために山登りをしたりします。

さらに沖縄などは、海の向こうにいずれ人々が行き着く理想郷があるという「ニライカナイ信仰」が強く残っています。日本人にとってスピリチュアリティの世界はすぐそこにあるわけです。

私自身が大きな癒しを受けたと感じた経験があります。何年か前のゴールデンウイークに、家族を車に乗せて北陸の実家へ向けて渋滞する高速道路を走っていた時です。長時間のドライブに疲れ果て、「ひと休みしよう」と日本海が見えるサービスエリアに立ち寄りました。ちょうど、夕日が沈む時間でした。家族一同、まさに日本海に沈んでいこうかというオレンジ色の太陽にしばし目を奪われました。そして、太陽が海の中にすっかり姿を消した頃、ふと気づくとさっきまでパンパンに張っていた肩がうそのよう
に楽になっています。「いったいこれは何だろう」と思いました。そして、「そういえば窪寺俊之先生の著書に、『自然によるスピリチュアルケア』ということが書いてあったぞ」と思い出したのです。「あ、これだな」と感じました。

このようにスピリチュアルケアには、自然崇拝や祖先崇拝が関わってくることがあります。ここには必ずしも一対一のカウセリング的な関わりはありません。 

 


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